幸福を測る天秤

物語

あらすじ

「幸福を測る天秤」が街に現れた。人々は数値に魅せられ、やがて疑い始める――幸福の本質を問う寓話的短編小説。


本文

とある街に一人の男が現れた。
彼は町一番の大通り、歩行者天国に向かうと背負っていた大きな折りたたみ机を取り出して道端に置き、その上に真っ白なテーブルクロスを広げると、今度は鞄から天秤を恭しく取り出しては机にそっとのせた。
その天秤は日の光を反射し美しく光っていた。そしてサビや傷が一つもない新品のように綺麗だった。
男は最後に傍らに大きな立て看板を立てた。
その看板に大きな字で「あなたの幸せを測ります」と書いてあった。
最初人々はその露天を訝しみ目もあわせずに足早に通り過ぎたが、とある好奇心旺盛な一人の女子高生が彼に尋ねた。
「ここは何のお店なんですか?」
彼は穏やかな笑みを浮かべながら
「この天秤はあなたの幸福を数字で示します。なんとなくやあやふやなものではなく明確な事実としてあなたの幸福を数字で示すのです。」
女子高生は占いのような物かなと思い、自分の幸福を測って貰うことにした。
彼女の申し出を男は快諾し、氏名の記入欄のみが書かれた小さな紙を渡すとそこに自分の名を書くようにと指示した。
彼女の名前が書かれた紙を受け取り、天秤の皿に乗せると大きく天秤は傾いた。
男はもう片方の皿に金色の重りを乗せていき、2つの皿を均衡させる。
「あなたの幸福は56点です。」
「これって良い点数なんですか?」
「点数は1から100までで表します。真ん中ぐらいですね。」
男はそれ以上なにも語らず、女子高生は56点を繰り返しながら去って行った。
その日のお客さんは彼女一人だけだった。
次の日も、その次のもお客さんは現れなかったが、男は日が昇るとやってきては露天を出し、日が沈むと露天をかたづけて去って行った。
何日も誰一人としてお客さんは現れなかったが、男は焦るでも怒るでもなく、毎日露天を出していた。
やがて1週間が経ったとき、あのときの女子高生が再びやってきた。
しかも彼女の友達らしき二人の女子高生も一緒だった。
「幸せの点数を教えてくれるってこのお店?」
「そうそう、おじさん私の友達も調べてくれない?」
「ええ、ではお二人ともこちらにお名前をお書き下さい。」
二人の名前が書かれた紙を、前回と同じく秤に乗せて測っていく。
「私71点だってー高くない!?」
「えー私45点なんですけど。これ適当なんじゃないの?」
三人ともそれぞれの点数について楽しくお喋りしながら露天を去って行った。
その後ろ姿を天秤の男は微笑ましく見送った。
「すいません、私も幸せを測って欲しいんですけど。」
その姿を見ていた男がそう話しかける。
振り返った男は同じく微笑みを浮かべてこう答えた。
「いらっしゃいませ。今すぐ測りますね。」
始めは誰からも見向きもされなかった露天はやがてお客が来始め、同時に街の人々の様々な噂に1つの噂が加わった。
男が持つ天秤は幸せを正確に測るらしい。
自分が幸せか不幸かが数字で明確に示される。
その噂が広がるに従って露天に訪れた人も増えた。
始めに一日に一人だったのが3人、10人と増えていき、やがて行列が出来、ついには予約制になった。
いつの間にか天秤の露天は街で知らぬ者がいない程有名になっていた。

天秤に94点と示された男がいた。それはこの街で最高に幸せであることを示していた。
彼は町一番のお金持ちであり、成功した実業家でもあり、賢妻と親友に囲まれた人望家でもあり、愛郷心の強い篤志家でもあり、勤勉で謙虚で親切な男だった。
人々は僻むよりは感心し誰もが彼を慕っていた。
その彼が街一番の幸せ者という天秤の答えは誰もが納得できる答えだった。
街のみんながそのことを祝う中で彼は嬉しそうに答えた。
「ありがとう。でもあと6点分幸せになる余地があると分かったことが私にとって一番の喜びです。私にはまだまだできることがあるということですから。」
人々はその勤勉さと謙虚さに感心した。

ある女は天秤に15点と示された。それは街で一番不幸である事を示していた。
彼女には親はなく、親しい友達もいない。
投げやりな性格でどんな仕事も途中で辞めてしまう。
当然お金もなく住む場所もなく、その日暮らしをしながら道端に転がり安酒を飲むのが唯一の楽しみだった。
そんな暮らしが長続きするはずもなく彼女は体を壊し、けれども病院へ行く金もなく止むことのない激痛を誤魔化すように更に安酒を煽っていた。
彼女は15点と示されたことになんの興味も抱いていなかったが、それが町で一番不幸な数字だと知らされると笑い出した。
久しく笑っていなかったのか、あるいは体が痛むのか不自然で不気味な笑い声だったがひとしきり笑った後彼女は言った。
「なら後は上がるだけか。」
それから彼女は酒を止めた。
アルコール中毒で震える手を抑えながら働きその金で病院に行った。
ボロボロの体でも出来る僅かな仕事をこなしても殆どが治療費に消えた。
それでも働いて、治療し、また働いて、そうして遂に彼女は自分の部屋を手に入れた。
それは古く汚く、ただ屋根と壁しかない部屋だったが、永年家無しだった彼女のとても久しぶりの、もしかしたら初めての帰る場所だった。
その中に唯一ある古びたベットに横たわり、薄い布団で体を包んだまま彼女は天秤の男に今の点数を尋ねた。
「21点です。」
彼女は満足そうに小さく微笑み、そのまま息を引き取った。
彼女に友はなく、子もなく、その臨終に誰も集うことはなかった。
体はボロボロで激痛が止むことはなく、アルコール中毒は完治はしなかった。
けれども彼女は自分のボロ家の貧相なベットで終わりを迎えることが出来たのだ。

街の人々は自分の幸福を知ることでもっと幸福になろうとした。
始めは疑っていた人々もやがて天秤が正しいことを信じていった。
自分の幸福がどの程度かが明快に分かると、次は努力して1点でも向上させようとした。
人々は足繁く天秤の男のもとに通い、今は何点か、明日は何点かを尋ね続けた。

そんな光景が当たり前になった日々。
しかし、ある少年が不思議に思った。
少年は天秤に36点と示された。人々はそれになんて不幸なんだと同情し、母親は泣いてその境遇を謝った。
けれども少年自身は自分が不幸だとはどうしても思えなかった。
母親の悲しむ顔に耐えられず、露天を離れて直ぐに少年は言った。
「みんなが言うように僕は貧しく、お父さんもいない。
けれど僕の為に心から泣いてくれるお母さんがいる。
お母さんは毎日朝から晩まで一生懸命に働いているのに、お掃除やお洗濯もしてくれる。美味しいご飯も作ってくれる。」
だから不幸じゃないと、少年は言った。
「それに一緒に遊ぶ友達もいるし、学校だって楽しい。」
少年は不思議だった。どんなに思い返しても毎日の生活を悲しいとは思えない。
なのに母も周囲の人も少年は不幸なのだと言うのだ。
「お金がなくて我慢することは多いよ。でも僕は毎日が楽しいのに、それなのに僕が不幸だなんておかしいよ。」

少年の言葉は、その場にいた一人の男の胸に強く残った。
彼は天秤と出会ってからというもの毎月必ず、機会があれば毎週通っては天秤に自分の得点を尋ねた。
天秤の点数は殆ど変わりはないが、僅かでも上がればその日はご機嫌で自分の未来が輝いて見えたし、逆に僅かでも下がれば大いに落胆し自分の未来が閉ざされたと嘆き悲しんだ。
普段の生活でも今は幸せかと常に頭の中で考え、やることなすこと日々の一挙手一投足が幸せになることかそうでないかと気になり仕事にも身が入らなくなってしまった。
俺はなにをしているんだろうか。
毎日天秤の点数のことばかり考えて、肝心の自分の人生を忘れていた。
俺が気にするべきは天秤ではなく毎日の生活だったのに。
悩みが晴れた男の顔には自然と笑顔が浮かんでいた。

すれ違った女はその晴れやかな笑顔を見て、羨ましいと思った。
女は長く付き合った恋人と別れ、新しい恋人と付き合い始めてからため息が増えていた。
最近この町では、恋人達の破局と誕生が増えている。
人々がより幸福になろうと、より幸福の点数が高い恋人を求め始めていたからだった。
彼女もその流れに乗って前の恋人よりもずっと幸福の点数が高い恋人と付き合った。
始めはこれでもっと幸せになれると思ったが、最近は本当に自分は幸せになれるのかと不安だった。
今の恋人はいい人だ。優しいし頼りがいがあるし、立派な仕事をしている。
けれど彼女は、前の恋人から頼られることをむしろ好んでいたし、不器用なほど正直な所を尊敬していた。
ふと彼女は思った。もしかして恋人の幸福の点数は私の幸福の点数に関係が無いのかしら、と。
だって今の恋人は確かにとてもいい人だけど、彼女は今でも一緒に食べたカレーの味と恋人の笑顔を忘れられずにいるのだから。

少年の疑問は最初は少年一人だけの疑問だった。
けれどその疑問は男の心を晴らし、女の心を揺らした。そしてその疑問はさらに別の誰かへと少しずつ、ゆっくりとこの町に広がり始めた。
穏やかな街の水面にさざ波が広がり始めていた。
その波に揺られるなかで、やがて街の人々は恐る恐る、けれども我慢できずにささやきだした。
本当に私達は幸福なのか。これが幸福なのか、と。

それでも街の人々の疑問はなかなか公には現れなかった。
既に人々にとって天秤の点数は絶対の数値であり、世界の法則であり、常識だった。
天秤の点数が高いと言うことは幸福であるという事実を示しており、天秤の点数が低いと言うことは不幸であるという事実を示している。そのはずだった。
その天秤に疑問を差し挟むことは恐れ多く荒唐無稽で馬鹿馬鹿しいことだった。
だから誰もが人に聞いたときに一笑に付して笑い流し、けれどもその問いに誰もが答えられなかった。
だからその話が終わっても、夜になっても、日が昇っても、人々は心の中で思わずにいられなかったのだ。
そしてその恐怖に耐えきれなくなると、誰かに耳にそっとささやいた。
「天秤は正しいのか」と。
相手も自分と同じように笑い飛ばし、その場は冗談として終わるも結局問いはいつまでも解決しなかった。
いつまでも。いつまでも。

そしてその問いが街を満たし、あふれ出したときに、人々は驚き慌て、驚天動地の想いを天秤の男に吐き出した。
「天秤が壊れているんじゃないのか!?」
そう叫んで大勢の人々が天秤の露天に詰めかけた。
道路は人々で埋まり、車は投げ捨てられ、鞄も放り捨てられ、人々は押し合いへし合いしながら集まった。
動揺する大衆に向かって天秤の男も声を張り上げる。
「天秤は壊れていない! これまでの結果は全て正しいし、これからの結果もまた全て正しい!」
大声でありながらも、とても落ち着いた声がよく響いたが人々は納得しなかった。
「ではなぜ俺は幸福じゃないんだ!?」
「君は幸福である! なぜなら天秤がそう示しているのだから!」
「どうして私が不幸なのですか!?」
「君は不幸である! なぜなら天秤がそう示しているのだから!」
周囲から繰り返される人々の疑問に男は堂々と答えた。
天秤の正しさを繰り返し主張し、これまでと同じように天秤で人々の幸福を改めて測りもした。
それでも人々は納得しなかった。
「本当に天秤は正しいのか!? 正しいならばなぜ我々はその点数に納得できないのだ! やはり天秤が壊れているからではないのか!」
それは詰問でもなく、叱責でもなく、糾弾でもなく、むしろ哀願の声だった。
だが男は胸を張り、天秤を空高く掲げ、声を張った。
「この天秤は幸福を数値で明快に示す! それに間違いはなく、それは神の意志に等しく完璧だ! 間違っているとしたら、それは君たちの判断ではないのか! よくよく自分の幸福を考えなさい!」
天秤は日の光を反射し輝いていた。
その輝きは天秤が永遠であり、だからこそその結果もまた永遠の絶対性を感じさせるほどの美しさだった。
男は掲げた天秤の正しさをどこまでも主張した。
天秤は正しく、正確で、誤りなどない。
これは奇跡の天秤でありほんの僅かな間違いが生まれる余地すら欠片もないと宣言した。
人々の悲鳴が上がり、より一層人々が天秤の男に詰め寄った。
人々は天秤の男に縋り付いてすらいた。
天秤の男のスーツをしわが出来るほど堅く握りしめた。
人々は激情し、絶叫し、絶望していた。
だからその時のことを正確に覚えている者も見ていた者もいない。
街の人々が詰め寄ったときに天秤の男に勢いよくぶつかったのか、誰かがその焦燥に追われて手を伸ばしたのか、あるいは冷静そうに見えた天秤の男が実は動揺し冷や汗をかいていたのか。
ただ結果として、天秤は男の手から離れた。
それまで日の光を浴びていた天秤の輝きが人々の影に遮られて失われ、それでも傷一つない天秤は周囲の唖然とする人々の顔をはっきりと映しながら落ちていく。
ゆっくりと、ゆっくりと落ちていく。
やがてアスファルトに落ちた瞬間、粉々に砕け散った。
それに気付いたのは天秤の男の周囲にいたほんの僅かでしかなかったが、直後に上がった天秤の男の絶叫に、遠く離れた者も何かが起こったことだけは分かった。
潮が引くように天秤の男の周囲からそれまでの喧騒が嘘のように消えていく。
やがて静寂に包まれた中で、ただ一人天秤の男の慟哭だけが響く。
地面に散らばった天秤の破片をかき集めなんとか直そうとするが、もはや粉々に砕けた天秤は、それがもともと天秤であると知っていなければなんの欠片か分からないほどバラバラだった。
天秤の男は手が汚れ、スーツが汚れることにも気付かずに必死に天秤の欠片を拾い集めると、それを鞄に大切にしまう。
一瞬の沈黙のあと、勢いよく立ち上がると、人々にあらされた露天に戻り机を折りたたみ看板を畳んだ。
人々が声もかけられずにただ見守ることしかできない中で、最後に天秤の男は街の人々を見回すと言った。
「天秤を信じられないなら、自分で幸福かどうかを決めてみればいい。 ……もっとも、それができるならば。」
それだけを言い放つと、割れた群衆の中心を堂々と歩き、やがて街を出て行った。
それ以来、この街に天秤の男が戻ってくることはなかった。


幸福は測れるのかを問う記事

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