自由は常に幸福を意味しない
自由は幸福を生むうえで欠かせない要素です。
あえて断言すれば、「自由なくして幸福なし」と言っても言い過ぎではないでしょう。
それほど自由が幸福に占める割合は大きいのです。
しかし、その自由が常に幸福をもたらすとは限りません。
ときに自由は、幸福を傷つけ、奪うことさえあります。
たとえば、仕事の辛さから食べすぎに逃避したとしましょう。
好きなだけ食べるという自由を享受してはいますが、その自由は肥満や不健康を招き、結果として本人の幸福を損なうかもしれません。
自由であることは、直ちに幸福であることを意味しないのです。
自由は衝突する
自由とは真っ白なキャンバスのようなものです。
そこに何もなければ、そこにはあらゆる自由が存在します。
しかし、暖かい家を望めば同時に寒い外が生まれるように、孤独を癒やす誰かを望めばあるいは喧嘩をしたり孤独を感じる時もあるでしょう。
そして社会には貴方が描く前から既に他者が存在します。
貴方に自由があるように、他者にも自由が存在します。
貴方は好きな場所を歩く自由がありますが、他者にも自分の土地の出入りを制御する自由があります。
この場合二つの自由は共存することが出来ず、自由に歩けば土地の出入りを制御することができず、土地の出入りを制御すれば自由に歩くことが出来ないという排他的な関係となります。
言い換えれば自由とは本質的に”有限”な資源なのです。
この衝突はあらゆる場面で見られます。
言論の自由は名誉を守る自由と対立し、経済活動の自由は環境保護の自由と対立します。
また個人の信仰の自由は、他者の信仰の自由とも対立します。
どの自由も、それ自体では幸福のためになる価値を持ちながら、その行使が他者の幸福を奪うことがあるのです。
そして他者の自由を、踏みにじる自由は存在しません。
なぜなら自由とは根本的に平等であり、誰かの自由より優先されるべき自由など存在しないからです。
もし幸福のための自由が、その名の下に他者の幸福を奪うとき、その自由は本来の目的である幸福の増進から離脱しもはや自由とは言えないのです。それはもはや自由ではなく支配です。
だからこそ私達は自由をただ守るのではなく、どう守るべきかを常に考えなければなりません。
自由は幸福を生むためにあり、幸福はすべての人に等しく与えられるべきものです。
だからこそ、自由もまた平等に尊重されなければならないのです。
自由は共有財である
自由とは、しばしば「個人のもの」として語られます。
自分の選択、自分の意思、自分の人生。
しかし、自由が現実に存在するためには、それを保障する他者と社会が必要です。
自由は孤立しては存在できない。
それは一人の所有物ではなく、すべての人が分かち合う共有財なのです。
もし、誰か一人だけが絶対的な自由を手にしたとしたら、
その瞬間に他のすべての人の自由は消滅します。
なぜなら、絶対的な自由は他人の自由を支配する自由だからです。
ゆえに、自由は「分かち合っている」という前提のもとでしか成立しません。
言論の自由が存在するのは、
自分の発言を守ると同時に、他者の発言も認めているからです。
投票の自由が価値を持つのは、
自分が選ぶ権利を主張しながら、他人の選択も等しく尊重するからです。
どんな自由も、他者の自由の存在を前提として初めて成り立つ。
つまり、自由は個人の所有物ではなく、相互の信頼によって成立する共同体的な契約なのです。
しかし現代社会では、この「共有の自由」が見失われつつあります。
SNSでは、自分の意見だけを正義とし、
他者の表現を排除することで“自由”を主張する人が増えています。
だがそれは、自由ではなく自己中心的な独占です。
自由とは、他者を排除する権利ではなく、他者の自由を受け入れる義務でもあるのです。
幸福至上主義の観点からすれば、
自由は「幸福のための個人の権利」であると同時に、
「他者の幸福と調和させる義務」でもあります。
幸福と自由は誰のものであっても平等です。
それゆえ、両者は常に他者との衝突と調整を経て、バランスを探り続けるほかありません。
誰かの小さな幸福が、誰かの大きな不幸によって支えられてはならない。
その自由の取引は、つねに合理的でなければならないのです。
だからこそ、私たちは自由を“共有財”として管理しなければなりません。
それは国家による強制ではなく、社会の構成員として互いの自由を守るための社会的責任です。
自由を乱用することは、自由そのものを破壊する。
だが、自由を共に守るなら、社会はより大きな幸福へと近づくでしょう。
自由とは、孤独な権利ではなく、協調の秩序である。
幸福とは、自由の私有からではなく、自由の共有から生まれる。
私たちが本当に幸福な社会を築くために必要なのは、
自分の自由を主張するだけでなく、他者の自由を尊重する勇気です。
権利と義務は、どちらかに傾いてはならない。
その均衡の上にこそ、自由と幸福は共に成り立つのです。
自由の限界を知ることが、真の自由を守る
自由は一見すると、無限に広がる個人の権利のように見えます。
しかし、社会の中で生きる限り、自由は他者と分かち合う共有財という性格を持つ、有限の資源なのです。
故に、他者の自由を害しない範囲では完全に自由であるとしても、他者と自由が衝突するときには、自己の自由の追求と他者の自由との調和のバランスを取らなければなりません。
なぜならば一方的な自由、それはもはや自由ではなく支配だからです。
社会において自由のバランスを探るということは、言い換えれば自由の交渉・取引であるとも言えるでしょう。
この取引が正当であるためには、互いの自由が相互に尊重され、合理的な対価をもたらすものでなければなりません。
すなわち、双方の自由がともに増進される関係であること、それが社会における自由の正当性を支える原理です。
逆に非合理な取引、すなわち自由の濫用は共有財としての自由を浪費し、社会全体の幸福を損ないます。
私たちが自らの自由を守り幸福を追求するためには、この共有財としての自由を効率的かつ公正に配分しなければなりません。
それこそが、自由の権利と義務の均衡を保ち、真の自由を守るということなのです。

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