分散する知と合理性の秩序

思索

かつて人間は、社会をより良く導くには「正しい者」が判断すればよいと信じていた。
しかし文明が膨張した今、もはや誰も社会の全体像を知ることはできない。
それでも社会は、誤りながらも前に進み続けねばならない。
ならば、誤りを防ぐよりも、誤りを修正する仕組みが必要になる。
ここでは、そうした制度の構想と、それを支える知識と合理性の秩序について論じる。


誤りを恐れず、修正できる社会へ

多くの政治思想は「誤らない統治」を理想とする。
賢く立派な人が王となり正しい統治をする。というのはもはや使い古されたどころか人類の魂に焼け付いている。
だが全ての人間が誤る以上、そのような統治は不可能である。
むしろ重要なのは、誤りをどうなくすかではなく誤りをどう修正するかであり、自由な社会とは誤りをすぐに直せる社会でもある。

私はこの考えから、『ランダム委員会』という制度を提案する。
完全無作為に抽出された市民が、おおむね一年の任期で公共課題の判断を担う。
国政レベルの審議でも、地域の違法駐輪の是正でもよい。
重要なのは“誤りをすぐに直せる”運動性であり、権力の蓄積や選別の恣意を構造的に防ぐ点にある。

この委員会の特徴は、

  1. 任期が短く、権力の蓄積が起こらない。
  2. 抽選によって選ばれるため、恣意的な選別や癒着がない。
  3. 誤る確率は高いが、次の委員会による修正が早い。

つまり、正しさの持続ではなく、誤謬の修正速度こそが社会の健全性を支える
もし長期にわたってランダム委員会が誤り続けるならそれは制度の問題というより国民への教育が間違えている、またはその問題に大多数が関心、つまり主体性を必要としていないことが原因である。
ランダム委員会の誤りは避けられない。だが、誤りを固定化しない仕組みを持つ社会は腐敗しない。

現在の選挙による議会や専門家委員会の問題は何か。まず任命されるのは知識や資格の保有者であり選別が行われる。選別は恣意性と一体化しており腐敗の温床となる。
さらに高度な知識と資格を持つ専門家は決して国民の一般的存在では無い。つまり国民の問題を一部の偏った価値観の集団が解決することになり、これは不公平と非効率の温床である。
そして選別は承継される。政治家や学者も血縁によって相続されることは珍しくない。
つまり間違えにくいかもしれないが問題が修正されるのは遅い。
この遅さが問題なのだ。
そもそも間違えることは人間の本質である。間違えない人間などいない。しかし、試行錯誤は早くできるし失敗の積み重ねは成功への階段に他ならない。
であれば間違えにくさよりも問題の試行錯誤の早さが結果として正しい選択を選びやすくなる。


ランダム委員会の限界と外部記憶装置

もちろん、ランダムに選ばれた市民が国家運営に必要な全ての知識を持つことはない。
政治・経済・科学・法律――どれも高度に専門化し、一般人が短期間で理解できるものではない。
しかし、前回の失敗を知らねば改善しようが無いし、過去から積み上げられた人類の英知を使わないのは無駄である。
内部に知識が無いのならば外部から持ってくる必要がある。

そこで委員会を支えるために必要なのが、
外部記憶装置(アーカイブ)である。

このアーカイブは単なるデータベースではない。その利用者もランダム委員会だけではない。
むしろ全ての人がアクセスできる。
アーカイブは過去の委員会の判断の経緯や結果、社会科学的知見、人類の歴史的経験など以外に簡単なレシピ、スポーツの結果など人類の全ての知識と情報を保存する装置である。

委員は、ここから必要な情報を自由に検索・参照しながら判断を下す。そしてその判断と結果はアーカイブに保存され次の出番を待つ。
つまり問題への「学習」と「判断」が同時に進行する。
委員個人が網羅的に獲得する必要はない知識は、外部記憶装置から適時取得すればよい。求められるのは、問題解決のために必要な論点を見抜き、当該知識を適切に呼び出し、批判に耐える説明を構成する知的努力である。
これは政治意思決定の寡占・固定化を防ぎ誰もがそれを可能とするという点で政治的意思決定の民主化である。
これはシステムによる知識と人間による意思決定の分業であり、この構造が専門家支配を防ぎつつ知的な意思決定を可能にする。


知識はもはや支配できない

アーカイブが一部の権力者のみのものとなったり、誰かの恣意的な書き換えによって、人々の意思決定に悪影響を与えるという可能性は、現代でも極めて困難であり、将来に向かうほどまずまず困難になるだろう。
なぜなら全ての知識を把握している人間は現代にいないからである。
現代文明の知識は膨大で、相互に依存し、分散している。
一部を改ざんすれば、他の部分との整合性が崩れる。
たとえば、もし誰かが天動説を「正しい」と見せかけようと、辞書を開き地動説を削除し天動説を追加することは出来るだろう。だがその人の知識には必ず漏れがあり全ての知識を整合的に書き換えることは出来ない。
辞書だけでなく惑星の運動を説明する数式や観測データも書き換えねば矛盾を生む。それも書き換えてもどこかの無名の日記に地動説を示す現象が記録されている可能性がある。
完璧な知識を持たない人間にはほんの僅かな改変であってもそれを整合性のある知識体系に書き換えることは出来ない。なぜならばそれは人類がこれまで集めた全ての知識を把握し理解し応用できることが必要であるからだ。

さらに、知識は世界中のサーバーや個人端末に分散している。
データセンター、図書館、個人の記録、紙の本――
そのすべてを改ざんすることは物理的にも不可能だ。

知識の分散構造そのものが、情報操作と独占を構造的に拒むのである。
文明の発達により知識はもはや王や政府といった単一主体の管理を超える規模と複雑さに達した。
だからこそアーカイブが必要になるのだが、それは同時に知識を人類が自由に改変することも不可能になったことを示しているのである。

知識が分散するだけでなく、人々の記録手段も多様である。
電子的に保存する者もいれば、紙や石版に刻む者もいる。
この人間の多様性が、社会の記憶の冗長性となる。

もし一部の情報が改ざんされても、他の媒体に残された痕跡がそれを暴く。
こうして「完全な書き換え」は不可能になる。

腐敗を防ぐ倫理や信仰よりも、構造としての分散と透明性こそが自由を守る。
最も信頼できる腐敗防止の構造とは、人間の善意に頼らずとも維持される構造のことである。
この外部記憶装置が正しく機能する理由は、もはや知識が誰かに独占されることが構造的に不可能だからである。


知識の分散と共通の現実

しかし、ここに一つの問題がある。
もし知識が完全に分散され誰も全体像を知らないとすれば、人々は異なる断片を見つめ異なる現実を語ることになる。

では、そのような社会で「共有された真理」はどのように成立するのか。
その答えは合理性にある。

知識が分散し正しさが相対化しても、合理性だけは普遍的な基準として残る。

合理性とは、批判と検証に耐えられるかどうか、という一点である。
あらゆる説明は批判される。
そして、批判を経てもなお残り続けた説明だけが真理と呼ばれる。しかしそれは完璧な真理では無い。
それはただ今のところ否定できないという一点から消極的に認められるおそらくは真理だろうという推測であり、そして真理にはこの消極的推測以上の確たる段階は無い。

つまり、真理とは権威によって決まるものではなく、自由な知識市場の中で生き残った合理的説明である。


自由と真理の一致

ここで、自由と真理は一致する。
自由とは、誰もが批判できる自由であり、真理とは、批判に耐えた合理性である。

したがって、

自由のある社会は、真理を自動的に生み出す社会である。

人々の多様な視点と批判の往復が、誤りを洗い出し、合理性を鍛え、真理を更新していく。
この循環こそが分散する世界を統合する唯一の秩序である。


合理性の秩序の中で

人間はもはや知識を完全に支配することはできない。
しかし、合理性という共通の言語を通じて、知識を共有し真理を見出すことはできる。

文明がどれほど複雑になっても、批判と合理性が保たれる限り、自由は失われない。
合理性とは、分散する人類を静かに結び直す秩序である。

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