不平等をめぐる合理の線

思索

社会的不平等は、どこまで是正されるべきなのか。
「すべての人に平等を」と唱えるリベラリズムは、努力や才能の差までも調整しようとするが、それは本当に人間の自由を守る道だろうか。
本稿では、自由主義の限界を見つめ直し、「合理的に説明できる不平等」と「説明できない不平等」の境界を考察する。
合理性とは何か、民主主義における平等の意味とは何か——その問いを「意見の自由市場」という視点から掘り下げていく。


機会の平等と介入の限界

リベラリズムには、一つの根本的な錯誤がある。
それは、人々の平等を神聖視するあまり、結果の差を「努力」で説明しようとすることだ。
だが当然ながら、努力がすべてを決めるわけではない。
生まれた環境、偶然の運、そして先天的な能力の差が、結果には大きく影響する。
それにもかかわらず、社会が努力のみを正義の尺度とすれば、幸福を左右する要因の多くが「自己責任」の名の下に切り捨てられてしまう。
では、平等とは何を意味するのか。
社会は人々を同じ地点から走らせることはできない。
できるのは、スタート地点へ向かう道を塞がないことだけだ。

すなわち社会が保障すべきは「結果の平等」ではなく、「機会の平等」である。
努力も運も、それ自体は本人の責任の範囲を免れ得ない。
生まれつき足がない人に特別な出場枠を与える必要はない。
社会が整えるべきは、義足を得るための情報へのアクセス、そして公平な競技条件だけである。
それ以上の干渉は、その人の自由意志と判断を侮辱する。


不平等の本質と合理的説明

不平等はそれ自体、悪ではない。
足が速い人と遅い人がいるように、先天的な能力差は人間の多様性そのものであり、むしろ社会の活力を生む。
問題となるのは、後天的に生み出される不当な差、すなわち人の自由——幸福の選択肢——を不当に奪う不平等である。
このとき重要なのは、合理的説明 が可能かどうかだ。

投票権の話をしよう。
教育・資産・人種で合理的な説明が出来るならば、それらを理由にした投票権の制限は不平等ではない。
だが民主主義が優れた人間による選択を否定する思想である以上、あらゆる選別を含む説明は非合理として否定されるだろう。
なので投票権の制限は不平等なのである。

合理的説明の不可能な差別は、自由の侵害であり、
社会的不平等として是正されなければならない。


合理性を担保する仕組み——意見の自由市場

では、「合理的説明」の判断は誰が行うのか。
それは制度でも専門家でもなく、意見の自由市場 である。
自由な発言と批判、応答の往復によってのみ、社会的な合理性は生成される。
この過程において、万人が等しい発言権を持つ必要はない。
意見がない者、知識がない者、関心がない者は問題を無視するだろう。
それでよい。むしろ、無関心な人々が討論に参加することの方が、場合によっては有害ですらある。
社会の討論は、意見を持つ者によって進められるべきだ。

ただし、関わる人間の数が少なすぎると、
討論による合理的意思決定よりも、腐敗や協調による非合理な決定の方が安上がりになってしまう。
ゆえに、一定の「数」は維持されなければならない。
その数を支えるために、たとえ無関心な人々でも「数合わせ」として動員される。
これによって腐敗のコストが上がり、合理的な妥協と討論が成立する環境が保たれる。
情報へのアクセスの確保や贈収賄の禁止も、究極的にはこの「数の維持」を支える制度にすぎない。


主体性の可変性と社会のリズム

ここで重要なのは、主体性は常に発揮されている必要はない という点である。
無関心な人間が関心を持てば、彼らは既に「数の内側」にいる。
関心を取り戻した瞬間に、主体性も回復する。
関心の強度は、その問題の社会的な重要性を示している。
少数しか関心を持たない問題は重要性が低く、多少の非合理な決定があっても影響は小さい。
だが関心が高まれば多くの人々が主体性を回復し、非合理な決定が行われる余地は自然と減っていく。
そして問題が解決すれば、関心は再び薄れ、人々は次の課題へと移る。
この循環が、社会における主体性のリズムである。

むしろ主体性を常時求める社会、
すべての人に投票や勉強を強制する社会の方が不自由だ。
人々は自らにとって本当に重要な問題に集中できなくなり、
社会全体が一様に浅くなる。
逆に、関心のある者が前に出て、関心のない者が退くことのできる社会こそ、
自由な討論と合理的判断が共存する健全な社会である。


結語:自由と合理性の均衡点

結局のところ、社会がなすべきことは単純だ。
人々が必要なときに自由に市場へ出入りできるよう、その道を塞がないことである。
合理性は討論の中で生まれ、自由はその討論の前提として守られる。
不平等は消えないが、不当な不平等だけが淘汰される社会 ——
それが、自由と合理の均衡が保たれた社会の姿である。

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